☆熱い血潮の闘う歯科医☆
静岡県立浜松北高を経て、歯科界のフロントランナー東京歯科大学を平成3年に卒業後、東京都港区芝で修行生活の傍ら、平成4年から銀座の小嶋寿先生に師事。
その後平成5年にやまぐち歯科医院を立ち上げ、歯科医療相談、成人の歯並び治療、インプラント、お子様の矯正歯科、を得意分野として地域一番医院を創り上げる。
歯科医師として多忙の合間を縫って、国内外の研究会にも所属し、
基礎の視点からも歯科医学を探究している。
「自分がクライアント・患者さまだったなら受けたい歯科医療を提供する」を信条とし、
痛くなく、清潔で安心の歯科サービスを提供するため、日夜、格闘している。
およそ50歳、浜松市中区佐藤生まれ。動物占いは誇り高き狼。
血液型AB。尊敬する人物・アンソニーロビンズ。
「浜松から新しい歯科医療を発信し、
日本国民の歯に対する意識革命を巻き起こす!」
この崇高なミッションを当院チームクルー全員で2002年1月に決断して以来、やまぐち歯科医院では今まで、不思議なことが次々と起こっています。
このミッションに賛同する人々が続々とチームクルーとして集まって来るのです。
優秀な歯科衛生士が5人も在籍している上に、
さらに多くの応募があります。
そして将来有望なハッピースマイルアドバイザーも続々と内定しています。
在籍ドクターは皆メキメキと実力をアップさせ、
日本全国の大切な仲間・同志や友人からは多くの情報がもたらされます。
難しい問題に直面しても、
その解決方法を導いてくれるメンター(優れた指導者)が
なんと浜松まで訪問して導いてくれます。
真の実力がない取引業者さんは静かに去って行き、
私たちの夢の実現を快く手伝ってくれて、
素晴らしい技術力を持った大切なパートナー企業さんが
絶え間なく現れてはコンタクトしてくれます。
私たちの立てた計画は着々と達成しつつあり、将来の希望が確信に換わりました。
私たちは歯科医療において今後も妥協なきバージョンアップとカイゼンを継続し続けます。
来院される皆様に
「こんな歯科医院と巡り会えて、ほんとに良かった!」
「あなた方のよう人達をずっと捜していたんだよ!」
と笑顔で言っていただけるような歯科医院作りをチームメンバーとともに
これからもウキウキ・ワクワク楽しく実行してまいります。
あなた様には私どもの取り組みを温かく見守って頂くとともに、
今後ともなお一層の御愛顧を賜りますよう、
よろしくお頼み申し上げます。m(_ _)m
東京オリンピックで自信をつけ、いざなぎ景気とよばれた高度成長期に入った1966年、まだ周辺には田んぼが残る浜松の田舎町の歯医者の長男としてわたしはこの世に産まれてきました。
夜になると、蛙の大合唱でうるさくて眠れないような場所だったようです。
物心ついた時にはすでに診療室から歯を削る独特なキュイーンという音がいつも聞こえていました。
そして家には歯医者特有のホルム系の臭いがこびりついていました。
友達が遊びに来ると「歯医者くさ〜い!」といつも言われました。
父は当時、歯科医がとても少なかった社会情勢もあり、たくさんの患者さまの応対で、いつも疲れ果てていたことを記憶しています。
今思えば、効きの良くない局所麻酔薬を用いて、
性能の悪い設備や古い技術でよく歯科治療をやってたと感心してしまいます。
当時の父の一番の思い出としては少し酒癖が悪く、
気の強い母親と夫婦げんかをしてたびたび浜松東警察署のお世話になりました。
あのころの相生の警察署は木造で水色のペンキが塗ってありました。
夜中にぼんやりと明かりのともった警察署に行かなきゃいけなくなると
「またここかー!勘弁してくれよ!」と感じました。
いつも制服姿のおまわりさんが「ボクも大変だね。」と優しく慰めてくれました。
子供ごころにいつもご近所や警察署にご迷惑をかけて申し訳ないなと思っていました。
4歳になると佐藤幼稚園に入りました。
毎日毎日、とてもとても楽しかったです。
遠足や発表会や宿泊訓練などの行事のことがハッキリと記憶に残っています。
当時かなりワガママで暴れん坊だったみたいで、先生から「言うことを聞かない子はおうちに帰しません!」
と言われ、1人だけ送迎バスから降ろしてもらえなかったこともたびたびあります。
ですから今でも元気なお子さんが当院に来ていただくと、
気持ちがよくわかるのでかえって愛着がわいてしまうほどです。
また1970年には新幹線にのって大阪万博に行きました。とにかくもの凄い人と大雨でした。
まだ幼かったですが、日本中の人々の輝く未来に対する大きな希望のようなものをワクワクと感じました。
佐藤小学校に入ると有り余るエネルギーで、ちゃんと座って授業を受けられず、いつも隣のお友達とゴソゴソやっていて、毎日担任の先生に怒られていました。
クラスの同級生たちはおもしろいギャクを連発する才能に溢れ、休み時間は笑い転げていました。
学校に行くのが楽しくて楽しくてしかたありませんでした。
女の子やクラスのお友達にいっぱいいたずらをしたりふざけたことを言ったりしました。
よく同級生のお母さんから家に苦情の電話が来ていました。
「皆さん本当にごめんなさい。」この場をお借りしてお詫び申し上げます。
当時熱中していたのはソフトボールでした。
佐藤小では中町と西南と天神町の3つのチームがあり、
次回の練習グラウンドの利用権をかけて毎週日曜日に練習試合をしていました。
わたしは下手でしたが皆はとても上手でした。天神町のサードのくりた君や西南のショートのもとやす君、中町のファーストのひでじ君、のっぽのすすむ君などは皆素晴らしいセンスの持ち主でした。
本当はわたしの所属する中町が一番強いのですが、
中町はサッカー少年団と掛け持ちの選手が多かったのです。
あのころの佐藤小のサッカー少年団には、その後Jリーグの選手になった武田修宏さんなどそうそうたる選手達がいて、
なんと全国優勝してしまいました。
サッカー組はソフトボールも上手だったので彼らが抜けると中町は2軍メンバーで戦うことになり、
いつも他の2チームにコテンパンにやられて悔しい思いをしていました。
また2月になると四ツ池の浜松球場に中日ドラゴンズが春期キャンプをしにきていました。
当時はドラキチで、特に同志社大学から入団してきた田尾安志選手が大好きでした。
中日の選手の皆さんには快くサインや写真撮影に応じてもらいました。
今でも大好きです、どうぞ頑張って下さい。(現在は大阪阪神タイガースも両方応援しています。)
1978年(昭和53年)にはエース樽井投手の浜松商業が春の甲子園で優勝しました。
これには一戦、一戦町中が熱狂しました。
決勝戦のテレビ中継の時間には外を歩いている人が1人もいませんでした。
優勝が決まった時には、クラス皆で浜商の校歌を大熱唱しました。
野球がとにかく好きで、中学校でも野球部に入りました。
このころ、人生を揺るがす一つの行事がありました。
佐藤中町子供会主催の社会見学会で「航空自衛隊浜松基地」を訪れたのです。
航空機の説明や、整備の仕方、自衛隊の基地内にある部隊や学校の解説をそれはそれは丁寧にして下さいました。
そしてお昼は隊員の皆さんと一緒に食堂でカレーを食べました。
制服姿の自衛官がまたかっこいいんです。く〜憧れました。
午後からはなんと我々のためだけに「F86Fアクロバットチーム・ブルーインパルス」が飛んで演技を見せてくれたのです。
事前予告なしのサプライズでした。大空で編隊飛行を繰り広げ、
最後に私たちの頭上を編隊を組んで翼を振りながら何度も通過するのです。
わたしはポカーンとしてそしてうっとりです。子供心がガッチリと掴まれてしましました。
このとき「将来は絶対!ジェット機パイロットになる!」と硬く心に決意しました。
多くの先生方の温かいご指導を得られて、
希望の浜松北高に入学することができました。先生方!本当にありがとうございました。
浜松北高校時代には将来の進路について本当に悩みました。
歯科医院の「のれん」を守るために歯医者になるか、それとも自分の夢を追って自衛官になるか、
最後の最後まで迷いました。
そのころ米国で開局したニュース専門チャンネルのCNNが日本に上陸し、
北米の生の情報が日本でも見ることができるようになってきていました。
米国での奇怪な事件の数々に驚きました。
今思うと25年後の日本では全く同じことが起こっているので、
タイムマシンを見ているような不思議な感じがします。
アメリカは日本の25年後の鏡なんですね。
そんなある日、こんな特集が放送されていました。
老人ホームの入居者にアンケートをとって、「人生をやり直すとしたら、どのような人生にしたいですか?」
というものでした。
結果は
1位 たくさんの人と出会って、恋愛をしたかった。
2位 若いころから歯を大事にして高齢になっても美味しく食事をしたかった。
3位 もっと勉強して上の学校や資格をとりたかった。
4位 旅行をして、世界中を見て回りたかった。
5位 もっと多くの時間を家族と一緒に過ごしたかった。
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なんと当時の米国人は人生における歯の重要性に対する意識がとても高かったのです。
また別の特集でもホワイトニング・インプラントや審美歯科など当時の日本では考えられないほど
歯科のニーズとウォンツが高かったのです。
「そうか! 日本で歯科はこれからが本当に花開く分野だ!」
ジェット戦闘機パイロットの夢は諦めて、
歯科界のフロントランナー「東京歯科大学」に進学しました。
大学時代には運送会社でアルバイトをしました。
時はバブルの最高潮の時代でしたので、千葉や神奈川の新興住宅地への引っ越しや
デパートの配達などでとても忙しかったです。
運送業務は多岐にわたり、いろんな会社や地方に行くことができたのでとても社会勉強になりました。
倒産会社の夜逃げのお手伝いをしてトラブルに巻き込まれたときは
日本刀を持った恐いお兄さん達に取り囲まれ、さすがに恐かったです。
大学のクラブはアイスホッケーをやりました。
ゴールにシュートするスポーツをやってみたかったのです。
アイスホッケーは他のスポーツとは違い格闘技に近いものがありました。
1年生の時に有山杯という大会があり、自らのVゴールで優勝を決めた一戦が思い出に残っています。
また夏の合宿の時に、日本リーグ国土計画の選手がコーチに来てくれました。
日本トップ選手のプレーはさすがに素晴らしかったです。
人間技とは思えず、正確なコンピュータのような動きでした。
ホッケーは浜松に帰ってからも浜松クラブBチームでお世話になりました。
毎週の練習が楽しくてホッケーやっててよかったなと思えるほどでした。
当時チームにいた日系カナダ人のランス君は抜群のホッケーセンスと、
誰からも慕われる人柄を合わせ持ったとてもいいナイスガイでした。
大学一部リーグと互角に渡り合えるほどのプレーヤーなのに、
初心者にも分け隔てない態度で接し、そして日本人特有の文化も熟知している。
血の気の多い日本人とカナダ人選手が小競り合いを始めると、
彼がさっと間に入って丸く収めていました。
ランス君は今、バンクーバーで水産物を日本に輸出する会社を大きく経営しているそうです。
大好きなカナダに行きたくてたまりません。
「ランス!元気に待っててね!」
先代が亡くなった後、いろいろありましたが最終的に実家の歯科医院は閉鎖されていました。
私は東京で修行していましたが、なるべく早く浜松に帰ろうと思っていました。
東京時代に歯内療法をご指導頂いたのが、銀座の小嶋寿先生でした。
当時の最先端だったバーチカル根管充塞法(根管充填というと叱られます)というテクニックを教えて頂きました。
小嶋先生にはその後、咬合から総義歯まで広く厳しくお世話になりました。
今でもナソロジーの流れを汲む咬合理論は歯科における私の発想の出発点となっています。
いろいろなセミナーや研修会を受講しましたが、
熊本の生田先生には歯科医院の滅菌・消毒はどうあるべきかということを根本から教えていただきました。
当院では現在、すべての器材を使い捨てまたは完璧な滅菌を目指しています。
高性能のガス滅菌器を導入するために、
特定化学物質作業主任者の資格も当院のスタッフ3人が取得しています。
インプラントの基礎を教えていただいたのは川原春幸先生でした。
大阪歯科大学名誉教授でもある川原先生が主宰する大阪臨床器材研究所では今もみっちりと勉強させたいただいています。
川原先生は1970年代にすでに国産の単結晶のアルミナによるインプラント(バイオセラムサファイア)を実用化されていました。
現在の最新式インプラントと比較すると性能の劣るのは否めませんが、
当時、浜松地域のどこかの歯科医院で埋入され、
今も当院でメインテナンスを受けられている患者さまが何人もいらっしゃるのは驚きます。
浜松に帰ってくると、昔からの患者様が大勢待っててくれました。
「ヨッテルちゃん!ヨッテルちゃん!」と大声で呼ばれるのには困りましたが、
持てる力をすべて出し切って、診療にあたらせていただきました。
本当にありがたかったです。
歯を削る主体の歯科診療から予防中心のシステムに変更するために、
多くの研究会に参加しました。
ある日、突然道は開けました。
福岡予防歯科研究会というグループとご縁があり、
「オーラルヘルスプロモーション」の概念を教えていただきました。
先進国中最低レベルの結果しか残さなかったこれまでの健康保険制度による治療中心のシステムは
長期的に見ると国民の利益にはなりませんでした。
口腔の健康を守り、一生自分の歯で美味しく食事ができ、
笑顔で会話できることを可能とするためには、
何がなんでも「長期にわたるメインテナンス」が重要です。
欧米先進国では常識的なシステムとなっているのです。
このシステムを自然科学的のみならず、
社会科学的にどう構築していくかが日本にとって重要なことです。
当院の近所にはかつてスズキ自動車のルーツである鈴木自動織機、
そしてホンダの創業者の本田宗一郎さんが起こしたアート商会がありました。
われわれやまぐち歯科医院も小さな町工場から多くの世界的企業を輩出した浜松人としてのプライドを持って、
東西南北天地に感謝の気持ちで日本から世界に飛び出して行きたいと決意しています。
「浜松から新しい歯科医療を発信し、
日本国民の歯に対する意識革命を巻き起こす!」
これが私たちのミッションの一つとしてインストールされています。
2020年には世界標準のメインテナンスを基盤としたこれまでにない歯科医院が出現します。
歯の痛いときだけかかる歯科医院ではなく、
ご来院者さまと生涯にわたったおつき合いのできるクリニックです。
スタッフ一同ウキウキ・ワクワクしながら準備に取りかかっております。
皆様にはご不便をおかけしておりますが今しばらくお待ち下さい。
最後までおつき合い頂きありがとうございました。
皆様とまた、お会いできる日のことを心待ちにしております。
結びに代えて、私の座右の銘を紹介させていただきます。
(人生6ヵ条)
一、いかなることがあっても、物事を肯定的に考える。
二、常に一歩でも、二歩でも、前進することを考える。そのために、努力することを惜しまない。
三、いかなる時でも、人生に対する明確な目的意識をもちつづける。
四、自分を信じ、他人の否定的な言動に惑わされない。
五、大事に直面して、失敗を恐れない。必ず成功すると確信する。
六、将来の望ましい自分の姿をつねにありありと、微に入り、細にわたり、想像する。そうすると想像どおりの人となると確信する。
(引用:森岡正憲氏 拓殖大学名誉教授 日本貿易学会特別顧問
伊藤忠政治経済研究所顧問)